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3.11by池澤夏樹
どうしても紹介したい文があったので、転載します。
私が好きな池澤夏樹氏が[3.11]という文章をHPに掲載されていました。
震災について。
原発について。
そこからの転載。
色々な考えや気持ちが自分の中でも周りの方の中でも
何か自分の心に1番しっくり来ました。
自分の心に1番近い様な、代弁してくれている様な。
春を恨んだりしない
二年前、このコラムを開始するに当たって、表題をいろいろ考え、
ポーランドの女性の詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩から「終わりと始まり」という言葉を借りることにした。
その時は、この表題がこれほど適合する時が来るとは考えもしなかった。
一般にものごとはゆっくり変化するものであって、終わりや始まりがはっきり意識されることはめったにない。
しかし劇的な変化は皆無ではない。幸いと言っていいかどうか、9.11は日本からは遠く、2003年3月20日のイラク開戦はもっと遠かった。
だが2011年3月11日は日本で起こった。
3.11は我々の日付けになった。
何かが完全に終わり、まったく違う日々が始まる。正直に言えば、ぼくは今の事態に対して言うべき言葉を持たない。
被災地の惨状について、避難所で暮らす人たちの苦労について、
暴れる原子力発電所を鎮めようと(文字どおり)懸命に働いている人々の努力について、いったい何が言えるだろう。
自分の中にいろいろな言葉が去来するけれど、その大半は敢えて発語するに及ばないものだ。
それは最初の段階でわかった。ぼくは「なじらない」と「あおらない」を当面の方針とした。政府や東電に対してみんな言いたいことはたくさんあるだろう。
しかし現場にいるのは彼らであるし、不器用で混乱しているように見えても今は彼らに任せておくしかない。
事前に彼らを選んでおいたのは我々だから。
今の日本にはこの事態への責任の外にいる者はいない。
我々は選挙で議員を選び、原発の電気を使ってきた(沖縄県と離島を除く)。
反原発と言っても自家発電だけで暮らすことを実行した者はいなかった。
最初はよく泣いた。
廃墟に立って手放しで泣く老人の写真に泣き、震災直後にあった従兄の葬儀では泣かなかったのに
翌日の親友の娘の結婚式では花嫁姿に泣き、東北の現地に入った看護師の報告のブログに泣いた。ぼくには仙台に住む高齢の叔母夫婦がいる。ケアの付いた老人向けのマンションに住んでいる。
地震のすぐ後、棚のものがいくつか落ちて割れたくらいという連絡が一度だけあって、
その後は沈黙。強い余震が続く中で六十数時間の音信不通は辛かった。
ようやく固定電話が回復して無事が確認できた。
停電で、寒くて、食事も最小限。布団の中でラジオを聞いているしかないという。3月24日、たまたまぼくが東京にいる時、東北道の復旧が進み、高速バスが動き始めたことを知った。
すぐにデパートの地下に行って米や根菜類、レトルト食品などを買い込んだ。翌朝九時半に新宿を出るバスで仙台に向かった。
那須のあたりから先は地震で壊れた路面の補修個所が多く、バスはしばしば揺れたが、
しかし六時間で仙台に着いた。途中、瓦のずれた屋根をブルーシートと土嚢で応急措置した家をたくさん見た。仙台市内はタクシーが動いていたが、コンビニの多くは開いていないし、外食店もほとんど閉店。
店の前にテーブルを出して「牛タン弁当」を売っている人がいた。
ガソリン・スタンドの前には長い長い車の列。そのくらいの回復ぐあいだった。叔母たちを説いて札幌のぼくの家に避難することを承知させた。持ってきた食料はマンションの食堂に渡し、翌日のバスで青森に出て、海底トンネルで北海道に渡り、函館で一泊して札幌に帰った。
テレビで働く人の姿を見ることが多い。
これが今の日本の基本の姿だろう。
みんな目前のできることをしようとしている。
中島みゆきの「地上の星」のあの共感。
震災躁(そう)の後で震災鬱がやってくる。
動いて何かするのがいちばんの処方。
友人の一人は東北で小さな会社をやっている中学校の同級生のところへとんでもない量の慰問品を送った。
社員とその家族に行き渡る一食分の肉、野菜、雑誌とタバコ。今からのことを言えば、我々は貧しくなる。
それは明らかだ。貧しさの均等配布が政治の責務。叔母は、今は戦後と同じ雰囲気だと言う(戦時中と同じ、ではない。我々は殺すことなくただ殺され、破壊することなくただ破壊された)。十年がかりの復興の日々が始まる。
「またやって来たからといって/
春を恨んだりはしない/
例年のように自分の義務を/
果たしているからといって/
春を責めたりはしない」
とシンボルスカは言う。「わかっている わたしがいくら悲しくても/
そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと(沼野充義訳)」
そういう春だ。池澤夏樹
2011年4月6日付朝日新聞夕刊掲載
【反論について】
このコラムについて、読者から「これでは一億総懺悔であり、東電の責任をうやむやにするものである」などの反論がいくつか寄せられました。それについて、次の文章を書きました。
ぼくは東電や政府を免責すると言っているのではありません。
今はまだその時期ではないと言っているのです。
20年前に原発を論じた文章をここに掲載します(『楽しい終末』収録「核と暮らす日々」より)。
原子力というものに対するぼくの意見はこの時から変わっていません。
しかし今はぼくは「だから言ったじゃないか!」とは言いたくない。社会的に大きな災難が生じた時、人間はまず感情的に反応します。
絶望や落胆や悲哀からとりあえず抜け出すために浄化の手段を求める。
古代イスラエルでは責任を一頭のヤギに負わせ、山に放逐しました。英語ではスケープゴートと呼ばれます。
日本では禊ぎによって水に流すことにしていました(具体的には祝詞「六月晦日大祓」が参考になります)。
塩を撒くという方法もある。
何か行動することで汚れを祓うのです。その原理においては裁判も同じです。
できるかぎり合理的に見える方法で「犯人」に罪を負わせ、浄化の儀式を行う。
それでも「犯人」自身がその合理性を受け入れない場合、裁判は茶番になります。
オウム真理教事件がそのよい例です。
これについては 『人が人を裁くということ』 (岩波新書) 小坂井 敏晶著 が参考になります。今、ジャーナリズムがやっているのは国民の感情的な反応に対象を与えることです。
「あいつが悪い!」と指さすこと。
天災と呼んだだけでは絶望と落胆と悲哀から抜け出せない。人災の部分を合理的に解析してゆくのは将来のために必須のことでしょう。
しかしそれと目前に責任者を想定して叩くのは違うことではないですか?
東電の社長にみなで石を投げて放射能洩れが止まるのならばそうすればいい。
しかしそれは「合理的」な方法ではありませんね。ぼくは20年前に、人間に原発を長期に亘って無事故で運転する能力はないと言いました。
ぼくだけでなくたくさんの人たちがそう言ってきた。
高木仁三郎さんは亡くなるまでそのメッセージを言い続けてきた。その論旨を科学的に裏付けてきた。
それをなぜ我々は(日本国民は、と解釈してください)、容れなかったのか?
なぜ危険な大量のエネルギーを使い続ける道を選んだのか?
500万台の自販機に囲まれた生活を選んだのか?
そう問うのは責任を拡散してうやむやにすることではないでしょう。
次の世代に安全な社会システムを手渡すためには、今の時点で東電の幹部を血祭りに上げるのではなく、
我々がどの段階でどう間違えたのか、それを時間をかけて辿ることが必要です。
そうでないと「女川は大丈夫だった」で終わってしまう。
反省はいちばん深いところまで降りていってしなければなりません。
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